「これが最後のレースになる」とマイケル・フェルプスが約束したレースが終わったと思うや否や、質問が始まりました。レース後の記者会見で、記者がフェルプスの400メートルリレーのチームメイトであるマット・グレイバーズ、ブレンダン・ハンセン、ネイサン・エイドリアンに「マイケルは本当に引退すると思いますか?」と質問した時、彼らが答える前にフィルプスが割って入り、「します!」と答え、その場を去りました。
フェルプスは、ロンドンが彼の最後の舞台になると何度も話しており、私たちもそれを信じるべきです。しかし、近年、ブレンダン・ハンセンを含む多くの熟年競泳選手が、一度引退した後に復帰しているので、この質問が出てきたのでしょう。しかし、彼らとフェルプスとでは状況が違います。
ひとつは、オリンピックの決勝に残る見込みのあるアメリカ選手は、米国水泳連盟から毎年10万ドル以上の奨励金とスイミングアパレルのスポンサー契約を獲得できるということです。現在の雇用状況で、どれだけの20代の人が、これほどの額を稼げる全うな職に就くことができるでしょうか。16歳の時にSpeedoとCM出演契約を結んでプロになって以来のフェルプスの総収入は、5千万ドルになるとも言われています。
もうひとつは、これだけの期待と責任の重圧に耐えてきた競泳選手は過去にいません。そして、ある意味、11歳の時から並外れた期待をかけられていたと言えます。フェルプスは7歳の時にNBAC(North Baltimore Aquatic Club)チームに入りましたが、その主な理由は、彼の2人の姉であるホイットニーとヒラリーがチームに所属していたので、2人が練習の時に彼もプールについて行かなくてはならなかったのです。(ホイットニーは、1996年、バタフライの200mでアメリカ人女子でランキング1位でしたが、その後背中を怪我して引退を余儀なくされました。)NBACは、フェルプスの前に3人のオリンピック金メダリスト(テレサ・アンドリュー、アニタ・ナル、ベス・ボッツフォード)を生み出した、史上最も成功しているスイミングチームと言えます。
フェルプスが11歳の時、NBACの新しいコーチであったボブ・ボウマンは、フェルプスの両親に、彼らのひょろっとした、異常に活発な息子(たまに「おかしなやつ」と呼ばれていた。)は、世界一の競泳選手になる素質を持っており、それを実現するためには、同年代の仲間から離れて、18歳を含むクラブのエリートグループと一緒に毎日トレーニングする必要があると話しました。そしてそのトレーニングは直ぐに1日2回になりました。
その後もフェルプスは両親の家に住み、母親の手料理を食べていましたが、それ以外の彼の生活は、家族から離され特別なスポーツ施設に送られる、将来有望な青年期にある中国のスポーツ選手と大して替わりませんでした。ボウマンも認めているように、フェルプスはこの道を選んだ時から、普通の子供が経験する多くの事を犠牲にしなければなりませんでした。
世界一になる可能性があることに夢を膨らまさない11歳はいないでしょう。しかし11歳の子が、それが実際どういうことなのかを本当に理解することができるでしょうか。いつの日かレブロン・ジェームス(レブロンは1996年の時点ではまだ注目を浴びていませんでしたが)やデビッド・ベッカムというような大物と付き合うことになるかもしれないと言うことだけでなく、他の子供たちがビデオゲームをしたり、友達と遊んでいる時に、自分は四六時中プールでのトレーニングに追われる毎日を生きるということを・・・。
このような夢のような話を目の前に差し出されて、飛びつかない人がどれだけいるでしょうか。しかし、一度世界一の競泳選手に到達したら、次は普通の生活を望みたくなるものなのでしょう。(フェルプスがそうであるように、プライベートを好む人であったら特にそうでしょう。)それを考えると、フェルプスが北京の後もさらに4年間競泳を続け、ロンドンで幕を下ろしたのは注目すべきことです。
既に周知のように、フェルプスは世界史上最高の競泳選手となりました。彼は、わずか15歳でシドニーオリンピックでの200メートルバタフライの決勝に残りました。15歳と言えば、20代でオリンピックの決勝に残るであろう選手たちにとっても、全米ジュニアナショナルへの資格を得るだけでも幸運なことでです。翌年の春、まだ15歳の彼は、史上最年少の男子200メートルバタフライの世界記録保持者となりました。
その後の2年間で、フェルプスは4つの個人種目とリレーで10回世界記録を更新しました。その後、フェルプスとボウマンは、7つのオリンピック金メダル獲得というマーク・スピッツの記録を翌年のアテネで狙うことを発表しました。それを受けてSpeedoは、もしそれが達成されたら、フェルプスに百万ドルの懸賞金を支払うと発表しました。結果、フェルプスは6つの金メダルと2つの銅メダルを手にし、史上2番目のオリンピックメダリストとなり、4年後の北京オリンピックでは、その賞金はさらに吊り上げられました。
世界中で人々がフェルプスについて調べ、期待をし、推測を巡らします。二十歳にもならない内に、今までいったい何人の人がこれだけ世界中の注目を浴びたでしょうか。10年もの間、彼はアメリカの競泳をリードし、世界のトップに立たせること、そして競泳界全体に注目を集めることを期待されてきました。さらに、Speedo、Visa、AT&T Wireless、Omega watches、Argent Mortgage、Procter & Gamble、その他の会社の投資が彼の功績によって還元されること、1年に何百万メートルも泳いで挑戦者たちをかわし、最後に北京で8つのレースで勝つこと(この内2レースは、とてつもない僅差での勝利だった。)も期待されました。
フェルプスのような人は他には類を見ません。史上最高の競泳選手になるために持って生まれた身体能力より、彼の強靭な精神力の方が私には印象的です。あの精神力無くしては、世界中の期待を背負うことに耐えられなかったでしょうし、それゆえに、いざと言う時に目標を達成することもできなかったでしょう。私が1968年のオリンピック以来、44年間観てきた何十人もの才能溢れる競泳選手の中で、毎回底力を発揮する選手としてまず私の頭に浮かぶのはフェルプスです。
マイケル・フェルプスは誰から見ても素晴らしく、世界最高の競泳選手で、そのうえ途方もなく裕福です。しかし、忘れてはならないのは、それは彼の「仕事」であるということです。そして、その仕事を彼は卓越にこなしました。ここまでやり遂げたフェルプスは、彼が望むのであれば、少なくとも10年の平穏でゆったりとした時間を得る資格があるのではないでしょうか。 |