●「かかない」
そもそもクロールを泳ぐときに手で水をかかずに進むことは不可能です。従って「かかない」心得は正確に言えば、「手で水を後方に運ぶという意識をもたない」ということになります。それではなぜ手で水を後方に運ぶ意識を持ってはならないのでしょうか。
人間は陸上で生活している動物なので、通常力を加えようとすると筋肉を緊張させ、その緊張を使って重力やその他の力に逆らおうとします。重い物を運ぶとき、びんのふたを開けるときもそうしますね。従って手を使って水を後方に運ぼうとする、つまり水をかこうとすると手の筋肉を緊張させることになります。あたかも体の前にある重い荷物を引き寄せる感じですね。
しかし水中では、筋肉の緊張により力を得ることができません。しかも水は流体であり、重い荷物とは異なる振る舞いをします。水が発生する力(水の抗力)は重力により規定されるのではなく、主に動かす物体の加速度により規定されます(この他にも動かす物体の面積に応じて発生する力と、動かす物体の速度により発生する力が存在しますが、普通の人が泳ぐクロールであれば加速度が最大の要因となります)。
このため水の抗力を最大にするためには手を加速して動かすことが必要になります。実際には肩の下あたりで加速は最大になり、その後は等速運動を経由して減速に入ります。減速とはマイナスの加速度のことなので、水の抗力は前から後ろ向きに発生することになり、体を押し戻そうとしてしまいます。この動きを補填するために最後に水を手で強く押してから水面上に出す「フィニッシュ」という行為がありますが、この行為の前にマイナスの力が働いていることを忘れてはなりません。つまりフィニッシュは「借金をしてから貯金をするような行為」なのです。競泳選手であれば差し引きプラスになる範囲でエネルギーを使ってフィニッシュを行っても構いませんが、ラクに泳ぎたいのであれば借金自体をしないこと、つまり手が減速する前に水面上に出してしまうのが賢明です。
またもう一つ大切なこととして、もう片方の手の動きに注意を払うことが挙げられます。水中にある手が肩の下まで移動する頃には、水上にある手が入水します。この入水の角度や入水時の速度(加速度)について意識を持つ方が、より抵抗の少ない姿勢や体幹を使った推進力を生み出すために必要なのです。
入水した手は「かく」のではなく、体全体が滑るように進むための支点(アンカー)として働かせることができれば、手が入水する地点よりも水面上に出る地点が前になり、結果としてきれいに、ラクに泳げるようになります。
●「けらない」
全く足を動かさないのではなく、「足で水を押す意識をもつ」ことを意味します。人間は「ける」と考えてしまうと、サッカーのボールを蹴るようにボールと足との接点(インパクトポイント)を想定し、そのポイントにめがけて足を振り下ろします。しかし水中では足の軌跡全てが水とのインパクトポイントになるため、どのように動かしてよいのかわからなくなって自転車を漕ぐように足を動かしてしまうのです。
そもそも人間は足の付け根を支点として小さい弧を描くようにしか足を動かすことができません。回転運動における力の向きは半径に垂直に働くことや、重力に逆らって足を持ち上げていることを考えると、力の向きの多くは下向きであり、推進力となる進行方向後ろ向きの力はわずかであることがイメージできます(正確に計ったことはありませんが)。イアンソープのような36センチの大きな足でない限り、10の力を使って足を動かしているとすれば、推進力になるのはそのうち2〜3程度と推察されます。そうすると残りの7〜8割は下向きの力に使われており、水の抗力が上向きに発生するので足が浮くのです。つまり「キックは足を浮かせるために行っている」のです。
足を浮かせるにはキックをしないでも実現することができますね。頭を沈めて重心を前に移動することです。つまり重心を前に移動して足を浮かせることができれば、キックはもはやほとんど必要ないのです。もちろん10のエネルギーを使って2〜3の推進力しか得られなくても、その力が欲しい競泳のような場合にはキックを使います。このように燃費を気にせず力を追究するのか、効率を高めてラクに泳ぐかは泳ぐ人の判断になります。概ね100mで1分を切るような場合にのみキックが推進力として有効であると考えればよいでしょう。
それではキックは何のために行うのでしょうか。答えは「体幹の回転を助ける」役割です。足で水を押し、その反作用で腰の回転を生み出すようにすれば、足の動きが体幹の回転を助け、自然な形で前方、すなわち進む方向に力が伝搬していきます。先の「かかない」で説明しましたように水に対しては加速が力の根源になるので、ここでも水を「加速して」押すことが大切です。
●「まわさない」ここで「回す」というのは「ローリングをする」ことを意味します。ローリングは背骨(または頭頂部からお尻までの直線)を軸として体を回転させながら進むことで、通常は頭を中心に肩を回転させるイメージで体を回そうとします。しかし肩を回転させようとすると、多くの場合「回転のしすぎにより体がねじれる(特に腕を上げたとき)」ことが明らかになっています。
このため肩を回すのではなく、「おへそが左右を向く意識」「腰の上下をひっくり返す意識」を持つようにします。肩は「まわさない」と意識した方がよいでしょう。(1)足で水を押し、(2)それをきっかけに腰が回転して、(3)体全体のひねりが生まれ、(4)ひねりの力で水上にある手を加速して入水させる一連の動きが「対角線の力(ダイアゴナル・パワー)」と呼ばれ、理想的な力の伝搬形態になります。
「対角線の力」が実現できると、見た目にも力が前に移動して推進力になっていることが判別できます。また足と手の動きがとても美しく調和され、ピッチを上げてもその調和が失われることがありません。まさに「究極のカンタン・クロール」になるわけです。
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